【63】1975年
東京ディズニーランド
開園8年前の“裏事情”

 1975年1月25日号に「ディズニーランドがやってきた」という記事がある。前年にオリエンタルランドが米ディズニー社とディズニーランド建設の基本合意を結び、10年後の開業を目指すという話題を掘り下げたものだ。

1975年1月25日号「ディズニーランドがやってきた」1975年1月25日号「ディズニーランドがやってきた」
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『ウォルト・ディズニー・プロダクションは、世界のレジャー産業のトップであり、とりわけ、そのファンタジーとテクノロジーを見事に結びつけるあたりは、世界のレジャー産業の注目するところであった。
 このため、中南米、欧州の各企業からも提携申込みが相次いでいたといわれる。
 日本でも、オリエンタルランドと並んで三菱グループが精力的に接近していた。三菱では、三菱地所の富士山麓のリゾート開発に、ぜひともディズニー・プロの参加を望んでいたわけである。
 しかし、ウォーカー社長はこれまで、フロリダにおけるディズニーワールドの建設に全力投球中を理由に、海外進出を頑強に断り続けていた。
 それがこのほど、ディズニー・プロの会長、社長をはじめとする幹部の来日から、アッという間にオリエンタルランドとの提携が決まったのだから、世界各国、むしろ当事者よりも周囲のほうが驚いたくらいだ。
 もちろん、ディズニー・プロとしては、初めての海外進出であり、いわば、ディズニーワールドに次ぐ、3番目の遊園地づくりである。
(中略)
 完成のあかつきには、米ディズニーランドの経験からいっても、1日3万~5万人、年間1000万人の入場者を見込める。
 なにしろ、ディズニーランドの日本版ということで、東京はもちろん、全国から、それに来日外人観光客が必ず立ち寄るということで、ゆうにその程度の入場者を予定してよかろう。したがって、十分採算に乗るだろうと強気だ。
 ともあれ、ディズニーランドの日本版、本場通りにうまくいくかどうか。10年後が楽しみである』

 東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドは、1960年に三井不動産と京成電鉄の共同出資で設立された。当初の目的はテーマパークの建設が目的ではなく、浦安沖の海岸埋め立て工事を千葉県から受託し、一帯に宅地を造成し、分譲することにあった。その中には「東洋一のレジャーランド」を建設する計画もあったが、ディズニーの名前が挙がったのは72~73年に行われた欧米レジャー施設の調査を経てのことだった。

 74年に入ってディズニーとの交渉が始まり、同年12月にディズニー首脳が来日すると、わずか3日間で現場視察から基本合意までこぎつけた。当時はまだ舞浜地区の埋め立ては未完了で、JR京葉線や湾岸道路は存在しない状態。にもかかわらず、このスピードで意思決定がなされたことは驚異的だ。

 一方、記事にはオリエンタルランドと並び、三菱グループも米ディズニーに接近しており、富士山麓にテーマパーク建設をもくろんでいたとあるが、こちらは幻に終わった。東京ディズニーランドは翌年から建設が始まり、83年にオープンを迎える。