関東大震災の後、帝都復興院総裁の後藤新平が(1)東京と横浜を結びつける“大東京”を造り上げる、(2)区画整理によって主要道路の道幅はすべて30~60メートルとする、(3)公園、運河、市場を各所につくる、といった計画をぶち上げた。しかし、政府や東京市の要人が寄ってたかって削った結果、40億円をかける大計画は3億円に縮小されてしまった。
第2次大戦で焦土となった東京の復興でも、東京都は当初、6000万坪の区画整理を計画したが、これも次々に縮小され、最終的には400万坪程度の実施にとどまったという。
東京が「偉大なる村」から「偉大なる都市」と呼ばれるよう、今度こそ大改革を実施することを願って、記事は締めくくられている。
【53】1965年
倒産続出、山一證券の経営危機
五輪後に訪れた「証券不況」
東京オリンピックが終わった1964年10月以降、それまで伸び続けてきた民間設備投資の反動によって、65年後半からは戦後最大となる「昭和40年不況(証券不況)」に突入した。64年にサンウエーブ工業(現LIXIL)、日本特殊鋼(現大同特殊鋼)、65年には山陽特殊製鋼が倒産した。
また、オリンピック特需の反動で投資家の心理が悪化し、株式市場が大幅に冷え込んだ。証券会社が軒並み赤字に陥り、特に山一證券の経営危機がささやかれると、5月末には払い戻しを求める個人投資家が店頭に押し寄せる取り付け騒ぎが勃発する。
政府も財界も、昭和初期の「昭和恐慌」の再来を恐れただろう。5月28日、山一證券の救済のために日本銀行法25条による緊急貸し出し(日銀特融)が発動され、信用不安の拡大を抑えるという緊急措置も取られた。補正予算作成にあたって、政府は戦後初の赤字国債の発行を決めた。
65年6月7日号では「危機打開の証券対策を追跡する」という特集を組み、一連の対策を検証している。
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これに対し、大蔵省、日銀は、5月28日、日銀法25条(信用制度の保持、育成のための特別措置)にもとづく特別救済措置を発動、山一証券に対して、事実上、無担保、無制限、無期限の融資(運用預かり分に限る)を認めるなど、文字どおり“伝家の宝刀”を抜いて、全力を挙げこの不安解消に乗りだしている。
なにしろ、一時は、山一再建問題をめぐって、山一不信感が表面化、山一の本・支店店頭には、22日1万4000人、24日1万7000人、25日には1万3000人からの投資家が現れている。
(中略)
大蔵省、日銀の緊急対策によって、信用不安は解消した形だが、証券業界の再編成はまぬかれない情勢にある。
むしろ、証法改正案が国会を通過し10月1日から実施される運びになったこともあって、再編成の嵐は、風速を増しそうだ。
すでに昨年来、証券業界は、株式不振の長期化、深刻化を背景に、再編成の暴風圏内に入っている。
大蔵省の調査によると、昭和37年末598社、38年末593社を数えた全国の証券業者は、昨39年末に532社に減少。去年1年間で、いっぺんに61社も減って業界再編成が始まったことを物語っている。
この再編成の動きは、今年に入っていちだんとピッチを速めた。3月末の業者数は511社。4月末のそれは504と、わずか4カ月のあいだに28社が廃業している』
記事にもあるように、証券恐慌は証券業界再編を進める要因にもなった。政府は証券取引法を改正し、証券業に免許制を導入した。免許制移行に伴い、証券業者数は半減したといわれる。
とはいえ7月を底として株価は上昇し、なんとか危機は去った。もとよりオリンピック後も個人消費は引き続き旺盛で、消費財メーカーや流通業、サービス業の業績は特段、不況の影響を受けることがなかったこともあり、再び「いざなぎ景気」と呼ばれる景気拡大局面に入っていった。