【67】1979年
「第2次石油危機」の衝撃が
前回より小さかった理由

 1979年に発生したイラン革命によりイランの石油生産が急減し、世界的な石油供給が逼迫。石油価格が急騰し、世界は「第2次石油危機(オイルショック)」に襲われた。

 79年7月28日号では「第2次石油危機の実態」と題し、13人の石油専門家・エコノミストへのアンケートを基にした総括的な分析を行っている。

1979年7月28日号「第2次石油危機の実態」1979年7月28日号「第2次石油危機の実態」
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『専門家13人の面接アンケートで得られた第2次石油ショックの輪郭は、おおよそ次のようなものである。
 当面の需給関係はこの冬場に向かって、かなり悪化する。それは主として仮需、ないし思惑買いによるもので、来年初めから半ばにかけて、投機の反動と景気後退→需要減少によって、需給はバランスに向かう。しかし、長期的には厳しいものがある。
 OPEC諸国が石油温存政策を強めていることと、中東和平交渉ないしイスラム革命がらみの“石油武器”が行使される情勢にあること。このため石油危機は今世紀いっぱい、断続的にやってくる。
 したがって、日本経済に与えるインパクトは、短期的にはそれほど大きくはない。第1次石油ショック(1973~74年)直後のようにゼロ成長にはならない。長期的には慢性的な石油供給不足の基調の中で、第1次石油ショックとは比べものにならない、深刻な影響を与える。OPEC原油価格(平均実勢価格)は、年内は20~22ドルで推移する。本年12月には10%程度の値上げがあって、来年の実勢価格は25ドル程度になる。
 供給のひっ迫と原油価格のスパイラル的上昇を吸収するには、節約と省エネが必要であり、供給の安定的確保には、経済協力を背景にした資源外交の確立が欠かせない。それがないと、東京サミットで日本が約束した、1985年時点の石油輸入抑制目標(630万~690万バレル)の“確保”はおぼつかない』

 高度成長期から安定成長期への転換期に襲った第1次石油危機では、政府も企業も国民も、まったく備えができていなかった。しかし、政府も企業もその後、エネルギー供給源の多様化や省エネ政策、事業の多角化を進めていた。そのため、実質GDP成長率は79年の5.5%から80年は2.8%へと減少したものの、記事で予測した通り、第1次ほどの衝撃にはならなかった。

 引用記事の最後にあるように、第2次石油危機のさなかの79年6月に開催された東京サミットでは、主要先進7カ国が協調して石油消費を節約すべく、各国が石油輸入量の目標値を示すこととなった。日本は1日当たり700万バレルを最低ラインと想定していたが、その提案は通らず630万~690万バレルで合意せざるをえなかった。当時の大平正芳首相は、この量では経済に多大な影響が出てしまうと悲壮な覚悟で決断したというが、結果的には各業界の石油消費の節約が進んだことで、実際の輸入量はこの合意水準をはるかに下回る数値で収まった。

 2度にわたる石油危機は、日本企業のエネルギー効率を改善させ、家電や自動車等の省エネ技術を向上させるきっかけにもなり、日本経済の危機耐久力を高める効果もあったのである。