【65】1977年
25番目のヒラ取から大抜擢
松下電器・山下俊彦社長の手腕
1977年2月、松下電器産業(現パナソニック)が発表した社長人事は、大いに世間を驚かせた。なにしろ、取締役26人中、序列では25番目のヒラ取締役だった山下俊彦が、いきなり社長に就任したのである。この大抜擢人事は、東京五輪で金メダルを取った体操選手、山下治広の跳馬の技にちなんで「山下跳び」と呼ばれた。
松下電器の創業者で“経営の神様”と呼ばれた松下幸之助は、61年に一度、社長から退いている。66歳だった幸之助は、「早めに経営の第一線を退き、後継者を養おうと思った」と語り、49歳の娘婿・松下正治を2代目社長に指名したのである。しかし、正治は幸之助の期待に応えることができず、わずか3年後の64年に、幸之助は「代表取締役会長・営業本部長代行」の肩書で現場復帰する。
以来13年間、幸之助と正治の確執と、権力の二重構造による現場の混乱が続いていた。そこに来て突然の抜擢人事だった。2月5日号で発表直後、まだ“内定”段階の山下のインタビューが掲載されている。興味津々の編集部からは、5人の記者が同席したとある。
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山下 まあ、本当にむちゃな会社だと思いますね、こんな人事をやるということは(記者連中爆笑、本人は真顔で)。二度とこんな人事やったら、いかんのじゃないか、という感じがしますね。
――だけど、幸之助相談役は考えに考えて決めたことでしょう。
山下 (しばらく沈黙)そうでしょうかねえ、そうは思えん(また爆笑)。
――だけど、三洋電機の井植薫社長も「最初の日はびっくりしたけど、ひと晩考えてみたら、自分が逆の立場に立ったら、やっぱり同じようなことをしたかもしらん」とおっしゃっていましたよ。
山下 ウーン。ですけども、現在の松下電器の立場から言いますと、やはり世間が納得するような人事でなければいけないと思うんです。それが非常に追い詰められて極端な人事でも取らなければいけないということであれば別ですけれども、私もそんなに詳しいことは知りませんが、いまの松下電器というのは、そういう状況ではないと思うんですね。
――記者会見の時の「指名した人にも責任の半分はある」というあの発言、流行語になり始めているようですよ。よその会社でも上司が部下に仕事を命じると、「命令した上司にも半分の責任がある」と(笑)。不逞なすり替えですがね。
山下 私の場合は、よそさんと違いまして、非常に意外人事なんですわ。もちろん、私はその任ではないし、それから、そんな極端な人事をやらなければいけない背景は松下電器にはないわけです。常識で考えたら、こんなのやれない。
ですから、やるためには、「お前なれ、お前なら十分やれる、応援するから」ということを何回もおっしゃいますから、そういう責任はやっぱり取ってもらわなければいけない、ということですわ。それともうひとつは、こんな極端な人事をやりまして、それがうまく行かなかったら、私よりもそういう人事をした人に責めが回ってくるんじゃないかと思うんです。そういうことで言ったんです』
ふたを開けてみると、山下の活躍は想像以上だった。就任以来、毎年のように最高決算を計上。9年間の社長時代に、松下電器を家電専業メーカーから総合エレクトロニクスメーカーに方向転換させ、売上高、営業利益をそれぞれ2.6倍に押し上げたのである。
それだけではない。山下は幸之助に見いだされた立場にもかかわらず、松下家とは距離を置いてきた。幸之助はもちろん、会長だった正治が常務会に出席することを拒否し、創業家に忖度(そんたく)することのないフェアな経営を貫いた。同社を松下家の会社から脱皮させ、近代的な大企業に変えたのも山下の功績といってよいだろう。