【57】1969年
 難産だった八幡と富士の合併
「新日本製鉄」の陽と陰とは

 1968年4月、八幡製鉄と富士製鉄が合併に向けて交渉を進めていることが明らかとなった。八幡と富士は、国策会社だった「日本製鉄」が、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による財閥解体政策で分離されたものだ。再統合によって「新日本製鉄」が復活すると、米USスチールに次いで世界第2位の粗鋼生産高を有する製鉄会社が誕生するとあって、世間の大きな注目を集めた。

 ところが公正取引委員会は、両社が合併すると市場シェアをほぼ独占する品目が生まれることを問題視し、独禁法に違反するとして合併に反対する勧告書を出した。両社はそれに反発し、審判で争う事態となった。

 当時の財界は合併によって生産性、技術力、国際競争力の向上が見込めるとして歓迎する声が多かったが、公取委に加え、自由競争を重んじる近代経済学者90人超が連名で反対を表明し、世論は二分された。

 合併をめぐる審判手続きは、69年6月19日から同年10月14日まで計13回も開催された。最後は、同年10月30日に公取委が条件付きで本件合併を承認する旨の同意審決を下し、ようやく決着した。

 これを受け、難産の末に誕生する新日本製鉄について、1969年11月3日号に「マンモス企業“新日本製鉄”の表と裏」という記事が掲載されている。記事は次のような書き出しで始まる。

1969年11月3日号「マンモス企業“新日本製鉄”の表と裏」1969年11月3日号「マンモス企業“新日本製鉄”の表と裏」
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『やっと大願成就した。長かった。
 だが、とうとうその日がきた。
 新日本製鉄の誕生である。条件つきとはいえ、これで八幡製鉄と富士製鉄は、合併が実現できることになった』

「ダイヤモンド」は完全に合併歓迎派である。その上で、新会社の強みと弱みについてまとめている。

『まず、陽を書く。
 同業会社がいちばん恐れているのは、新日本製鉄が、次のような経営を実行できた場合である。
 一つは、集中投資、一つは、技術開発力の強化、一つは、販売活動の充実。この三つである。
(中略)
 こんどは、陰を書く。陰については、これまで何回か本誌に報告した。簡単に述べる。
 新日本製鉄の泣きどころは、老設備の多いことである』

 いずれも具体的な数字を用いながら解説しているのだが、正直言って特段、鋭い内容とはいえない。合併話が出てから半年余り、何度となく同様の分析記事を載せていることもあり、新味に欠ける感は否めない。むしろ、この記事で一番伝えたかったのは、冒頭の喜びと安堵(あんど)の声だったのかもしれない。