伊藤忠商事
創業者である伊藤忠兵衛の姓名に由来している。1858(安政5)年、初代伊藤忠兵衛が、大坂経由、泉州、紀州へ麻布の行商を開始(伊藤忠商事創業年)。1872(明治5)年、呉服太物商「紅忠」を創立。1893(明治26)年、「伊藤糸店」を開店。1914(大正3)年、個人経営の組織を改め、「伊藤忠合名会社」を設立。1918(大正7)年「伊藤忠商事」を創立し、現在に至る。
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#4
キーエンス、三菱商事、野村総研…「年収1000万円超企業はゴルフもうまい」説を大検証
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年収が高いからゴルフがうまいのか。ゴルフがうまいから年収が高いのか。ゴルフと年収を巡る果てしない論争について「サラリーマンゴルファーの甲子園」と呼ばれる全国大会から、ゴルフの実力と年収の相関関係に迫る。

予告
名門ゴルフ倶楽部でエリートが築く「最強人脈」、ビジネスとカネが動く大人の社交場の全貌
ダイヤモンド編集部,堀内 亮
新型コロナウイルスの感染拡大を奇貨として、低迷していたゴルフ業界が復活を遂げた。しかし貴族の社交ゲームとして始まったゴルフには、限られたエリートしか踏み入ることのできない“別世界”が今でも存在する。ベールに包まれた「最強サロン」である名門ゴルフ倶楽部で培われるエグゼクティブの最強人脈を解き明かす。巨額マネーが動くゴルフビジネスの全貌にも迫り、定番のゴルフ場ランキングもお届けする。

第28回
伊藤忠社員に必要な「営業力や交渉力よりも大事な能力」とは
野地秩嘉
高度成長から現在、そして未来に至るまで、総合商社が大きな役割を果たしてきたのが資源の安定的な調達だった。資源とはエネルギー源である石油、天然ガス、石炭、ウラン、そして産業の米と呼ばれた鉄鉱石、加えて各種金属類である。

#10
伊藤忠が「三菱商事の元子会社」に出資でコンサル参戦、極秘企画でアクセンチュアに対抗
ダイヤモンド編集部,重石岳史
巨大商社の間で、数奇な運命をたどるコンサルティング会社がある。シグマクシスだ。2008年に三菱商事の子会社として発足したが、その10年後に資本関係を解消。今、連携を深めるのは、三菱商事のライバル商社である伊藤忠商事である。その経緯をたどれば、コンサル業界に進出した二大商社の戦略の違いが浮かび上がる。

第27回
「伊藤忠商事の総合商社化」で生じた、東京と大阪の不協和音
野地秩嘉
瀬島龍三は業務部と他の部門のスタッフのために「スタッフ勤務の参考」というマニュアルを作った。長いマニュアルだけれど、言いたいことは次の二つだろう。

#4
ソニー・NTT・地銀…コンサル事業参入ラッシュに「2つの死角」、異業種が直面する壁の正体
ダイヤモンド編集部,山本 輝
バブルの様相を呈するコンサル業界で、異業種からの参入が相次いでいる。ソニーグループや富士フイルム、NTTといったビッグネームだけではない。地銀すらもおこぼれにあずかろうと駆け込んでいる。従来はコンサルを“使う側”だった事業会社の「自前コンサル」に果たして勝機はあるのか。異業種コンサルの百花繚乱の実態を詳説する。

#2
三菱商事・NTT連合がDXコンサルで最強アクセンチュアに挑戦状、3000人リストラの富士通は脱落
ダイヤモンド編集部,重石岳史
三菱商事と日本電信電話(NTT)という日本最強の商社と通信グループがタッグを組み、DXコンサル業界に侵攻した。両社が設立した会社では、ある分野で日本最高峰の人材をかき集めている。巨大資本とネットワーク力を駆使し、アクセンチュアやデロイトといった強豪がひしめく業界で果たして勝算はあるのか。巨大な新参者の戦略を解明する。

#17
三菱商事・三井物産らに迫る「包囲網」、ロシアから撤退すれば中国が笑うカラクリ
ダイヤモンド編集部,堀内 亮
エネルギーは国家の存亡に関わり、地政学と切っても切り離せない関係にある。ウクライナ危機をきっかけに、世界の「エネルギー地政学」は新たな転換点を迎えようとしている。

第26回
伊藤忠商事が「商売の素人」を、社内の司令塔にした理由
野地秩嘉
敗戦時の1945年、日本の人口は約7215万人だった。それが10年後には9008万人、東京オリンピックの翌年1965年には9921万人になり、1970年に人口1億人を突破している。25年間で2800万人の消費者が生まれた。

第25回
伊藤忠商事の「中興の祖」が、「人生は運と横着だ」という理由
野地秩嘉
1960年、戦後初代の社長、小菅宇一郎に代わり、繊維出身の越後正一が社長になった。越後は滋賀県の湖東に生まれ、戦前、伊藤忠兵衛の書生として八幡商業、神戸高等商業に進学することができた。神戸高商を出た後、いったんは合同紡績に入社する。それは伊藤忠が不況で人を採用しない頃だったからだ。

第24回
「44歳で入社した瀬島龍三氏」は、なぜ伊藤忠商事の中核人物になれたのか
野地秩嘉
嘱託として入社して1年後、瀬島龍三は航空機部の次長になり、翌年は機械第三部長、翌々年には業務部長になっている。小説『不毛地帯』(山崎豊子著)の影響で、戦闘機納入で活躍したように思っている人は少なくない。だが、本人も言っているが、「実際には何もタッチしていない」。航空機部の次長とはいっても専門知識があったわけではない。やっと日本のビジネス社会に適応し始めたところなのだから。

#11
三菱商事、トヨタ、東京海上…「金利高・資源高・円安」で業績上ブレが狙える割安王道株12選
ダイヤモンド編集部,篭島裕亮
株式市場の割安セクターの代表格に「自動車」「金融」「総合商社」がある。だが、これらの業種の中には、資源高、円安、金利高という大きな追い風を受けて、業績上振れや増配継続を狙える企業も目立つ。ただの割安にとどまらない、来期以降も成長を見込める割安グロース株を探した。

第23回
「旧帝国陸軍参謀」の瀬島龍三氏が、伊藤忠入社当初は注目されなかった理由
野地秩嘉
職業軍人でシベリア帰りの瀬島龍三に対しては、世の中や伊藤忠社内からの冷たい目があった。だが、世の中の大半が旧軍人に反感を抱いていたというのは事実とはちょっと異なる。敗戦時の日本の人口は7215万人で、うち800万人は軍隊にいた。若い男性のほぼ全員は軍隊勤務だったと思っていい。

第22回
「伊藤忠の戦後成長」を支えた、元軍人たちの知られざる役割とは
野地秩嘉
瀬島龍三の場合は敗戦から13年が過ぎた後の就職だが、軍隊がなくなって、公的機関や民間企業に職を求めた人数は多い。敗戦時、陸軍と海軍にいた人の数は約719万人(『昭和国勢総覧(下巻)』東洋経済新報社)。うち、戦傷、行方不明、戦死者の数は約186万人。数は一部、重複するけれど、敗戦時、海外にいた軍人軍属、民間人は約660万人。こうした人々がすべて国内で職を探して食っていかなくてはならなかった。

第21回
伊藤忠商事に「中高年の元エリート軍人たち」が中途入社した理由
野地秩嘉
1957年、高原友生は金属部の鉄鋼原料(石炭)担当から異動し、新設された業務部に加わった。業務部は軍事組織でいう参謀本部であり、経営者の判断に役立つ情報収集、情報処理をする。経営判断に役に立つ提案はするが、経営者の判断に対しては、意見を求められたときだけ述べる。エリート集団ではあるけれど、会社の進路を決定する組織ではなく、あくまで経営を補佐する「幕僚」で構成された部門だ。

第20回
伊藤忠商事の飛躍に一役買った、「金融界の法王」に屈しなかった企業とは
野地秩嘉
「総合商社の語は、戦後、使わるようになった。1955年(昭和30)年ごろから、わが国産業界およびジャーナリズムで使用され始めたといわれている」(『総合商社の研究』田中隆之 東洋経済新報社)。同書の著者は総合商社という言葉が誕生する以前は「貿易商社」「財閥系商社」「繊維商社」と呼ばれていたとしている。

#1
就職人気企業ランキング23年卒前半戦【文系男子・ベスト200】V3達成の商社は?
高村太朗
23卒就活の前哨戦ともいえるインターンシップ類は本格的にオンライン化された。ニューノーマル就活で人気を集めた企業はどこだろうか。

第19回
伊藤忠商事の「戦後の成長」を支えた、知られざる元エリート軍人とは
野地秩嘉
戦前から働いていた経営者にとって公職追放は過酷な政策だったかもしれない。けれども、日本経済のその後にとって、公職追放は悪い面ばかりではなかった。GHQは戦争を生む体制をなくすために行ったが、副次的な効果として、日本社会の若返りにつながったのである。

第18回
伊藤忠商事が「終戦直後に売ったもの」、謎肉ソーセージ、しょうゆの素、干し大根…
野地秩嘉
太平洋戦争が終わり、食うや食わずのなか、外地にいた社員が引き揚げてきて、大建産業の商事部門(伊藤忠)は苦肉の策でその日暮らしをするほかなかった。工場が残っていたメーカーであれば資材を求めて戦前と同じ仕事をすればいいけれど、モノを持っていない商社はまず社員が飢えないようにしてから、扱う商品を探すしかない。

第17回
「伊藤忠商事の社史」が、かつて平仮名を使わなかった理由
野地秩嘉
1931年の満州事変を端緒に日本は中国を侵食、満州国を建国し、37年の盧溝橋事件から中国と全面戦争になった。その後は歴史の教科書にある通り、主にアメリカと戦う太平洋戦争が始まる。戦争は約4年間続き、敗戦は1945年8月15日である。
