伊藤忠商事
創業者である伊藤忠兵衛の姓名に由来している。1858(安政5)年、初代伊藤忠兵衛が、大坂経由、泉州、紀州へ麻布の行商を開始(伊藤忠商事創業年)。1872(明治5)年、呉服太物商「紅忠」を創立。1893(明治26)年、「伊藤糸店」を開店。1914(大正3)年、個人経営の組織を改め、「伊藤忠合名会社」を設立。1918(大正7)年「伊藤忠商事」を創立し、現在に至る。
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第25回
伊藤忠商事の「中興の祖」が、「人生は運と横着だ」という理由
野地秩嘉
1960年、戦後初代の社長、小菅宇一郎に代わり、繊維出身の越後正一が社長になった。越後は滋賀県の湖東に生まれ、戦前、伊藤忠兵衛の書生として八幡商業、神戸高等商業に進学することができた。神戸高商を出た後、いったんは合同紡績に入社する。それは伊藤忠が不況で人を採用しない頃だったからだ。

第24回
「44歳で入社した瀬島龍三氏」は、なぜ伊藤忠商事の中核人物になれたのか
野地秩嘉
嘱託として入社して1年後、瀬島龍三は航空機部の次長になり、翌年は機械第三部長、翌々年には業務部長になっている。小説『不毛地帯』(山崎豊子著)の影響で、戦闘機納入で活躍したように思っている人は少なくない。だが、本人も言っているが、「実際には何もタッチしていない」。航空機部の次長とはいっても専門知識があったわけではない。やっと日本のビジネス社会に適応し始めたところなのだから。

#11
三菱商事、トヨタ、東京海上…「金利高・資源高・円安」で業績上ブレが狙える割安王道株12選
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株式市場の割安セクターの代表格に「自動車」「金融」「総合商社」がある。だが、これらの業種の中には、資源高、円安、金利高という大きな追い風を受けて、業績上振れや増配継続を狙える企業も目立つ。ただの割安にとどまらない、来期以降も成長を見込める割安グロース株を探した。

第23回
「旧帝国陸軍参謀」の瀬島龍三氏が、伊藤忠入社当初は注目されなかった理由
野地秩嘉
職業軍人でシベリア帰りの瀬島龍三に対しては、世の中や伊藤忠社内からの冷たい目があった。だが、世の中の大半が旧軍人に反感を抱いていたというのは事実とはちょっと異なる。敗戦時の日本の人口は7215万人で、うち800万人は軍隊にいた。若い男性のほぼ全員は軍隊勤務だったと思っていい。

第22回
「伊藤忠の戦後成長」を支えた、元軍人たちの知られざる役割とは
野地秩嘉
瀬島龍三の場合は敗戦から13年が過ぎた後の就職だが、軍隊がなくなって、公的機関や民間企業に職を求めた人数は多い。敗戦時、陸軍と海軍にいた人の数は約719万人(『昭和国勢総覧(下巻)』東洋経済新報社)。うち、戦傷、行方不明、戦死者の数は約186万人。数は一部、重複するけれど、敗戦時、海外にいた軍人軍属、民間人は約660万人。こうした人々がすべて国内で職を探して食っていかなくてはならなかった。

第21回
伊藤忠商事に「中高年の元エリート軍人たち」が中途入社した理由
野地秩嘉
1957年、高原友生は金属部の鉄鋼原料(石炭)担当から異動し、新設された業務部に加わった。業務部は軍事組織でいう参謀本部であり、経営者の判断に役立つ情報収集、情報処理をする。経営判断に役に立つ提案はするが、経営者の判断に対しては、意見を求められたときだけ述べる。エリート集団ではあるけれど、会社の進路を決定する組織ではなく、あくまで経営を補佐する「幕僚」で構成された部門だ。

第20回
伊藤忠商事の飛躍に一役買った、「金融界の法王」に屈しなかった企業とは
野地秩嘉
「総合商社の語は、戦後、使わるようになった。1955年(昭和30)年ごろから、わが国産業界およびジャーナリズムで使用され始めたといわれている」(『総合商社の研究』田中隆之 東洋経済新報社)。同書の著者は総合商社という言葉が誕生する以前は「貿易商社」「財閥系商社」「繊維商社」と呼ばれていたとしている。

#1
就職人気企業ランキング23年卒前半戦【文系男子・ベスト200】V3達成の商社は?
高村太朗
23卒就活の前哨戦ともいえるインターンシップ類は本格的にオンライン化された。ニューノーマル就活で人気を集めた企業はどこだろうか。

第19回
伊藤忠商事の「戦後の成長」を支えた、知られざる元エリート軍人とは
野地秩嘉
戦前から働いていた経営者にとって公職追放は過酷な政策だったかもしれない。けれども、日本経済のその後にとって、公職追放は悪い面ばかりではなかった。GHQは戦争を生む体制をなくすために行ったが、副次的な効果として、日本社会の若返りにつながったのである。

第18回
伊藤忠商事が「終戦直後に売ったもの」、謎肉ソーセージ、しょうゆの素、干し大根…
野地秩嘉
太平洋戦争が終わり、食うや食わずのなか、外地にいた社員が引き揚げてきて、大建産業の商事部門(伊藤忠)は苦肉の策でその日暮らしをするほかなかった。工場が残っていたメーカーであれば資材を求めて戦前と同じ仕事をすればいいけれど、モノを持っていない商社はまず社員が飢えないようにしてから、扱う商品を探すしかない。

第17回
「伊藤忠商事の社史」が、かつて平仮名を使わなかった理由
野地秩嘉
1931年の満州事変を端緒に日本は中国を侵食、満州国を建国し、37年の盧溝橋事件から中国と全面戦争になった。その後は歴史の教科書にある通り、主にアメリカと戦う太平洋戦争が始まる。戦争は約4年間続き、敗戦は1945年8月15日である。

第16回
戦前の伊藤忠商事が「業績不振の海外支店社員」にも多額のボーナスを支給した理由
野地秩嘉
後に伊藤忠の戦後2代目の社長になる越後正一は高橋是清が財政政策を始めた頃から敗戦まで、伊藤忠の社員として中国の青島支店に赴任した。その後、満州国総支配人として奉天(現・瀋陽)へ行き、さらにもう一度、青島支店長として中国に戻っている。

ファミマ社長がコンビニ飽和説に反撃!元・伊藤忠の大エースが語る「切り札」とは
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新型コロナ禍はコンビニエンスストア業界の退潮を鮮明にした。そのさなかの2021年に伊藤忠商事からファミリーマートのトップに登板したのが細見研介社長だ。伊藤忠の「大エース」とも評された細見氏に反転攻勢策を聞いた。

コンビニ王者セブンを襲う「稼ぎ頭商品」失速の危機、勝ちパターンに異変
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第15回
伊藤忠商事が「不況のどん底」に設立した紡績会社は、なぜ成功できたのか
野地秩嘉
昭和恐慌の前年の1929年、二代忠兵衛は縮めていた身体を伸ばす大きな勝負に出た。持ち金を集めて富山県に呉羽紡績という紡績会社を設立したのである。呉羽紡績は成長し、後に伊藤忠、丸紅、呉羽紡績3社は二代忠兵衛の会社の「御三家」と呼ばれるまでになった。

三菱商事と三井物産の社長が「LNG偏重批判」に応える!商社の脱炭素2段階戦略の中身
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20業界天気予報、2022年は自動車・航空・製薬・ビールにリストラの嵐!?再編・業績は?
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2022年の主要20業界の天気予報はどうなりそうなのか。ダイヤモンド編集部の担当記者が、リストラ実行度、再編機運、業績の「三大指標」を目安に業界の行方を大予想。22年に浮き上がる業界と沈む業界を大胆に先読みした。

第14回
日本一の商社「鈴木商店」が昭和初期に倒産し、伊藤忠商事が生き残れた訳とは
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大戦景気は長くは続かなかった。戦争が終わり、ヨーロッパ諸国の生産力が回復してくると、日本の輸出は後退し、貿易収支は輸入超過に転じていく。重化学工業の分野では質のいい輸入品が増加していき、国内の製造業を圧迫した。

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「繊維商社だった伊藤忠商事」が第一次世界大戦で大躍進した理由
野地秩嘉
二代忠兵衛が帰国した翌年の1911年、貿易にかかわるものには画期的な条約が結ばれた。外務大臣、小村寿太郎の努力により、アメリカと新しい日米通商航海条約が結ばれた。これによって関税自主権が完全に回復されたのである。

三菱商事が近く新社長人事決定へ、「本命」候補に名乗りを上げる人物とは?
ダイヤモンド編集部,重石岳史
三菱商事の新社長が近く決まる見通しだ。現職の垣内威彦社長は2022年4月で任期丸6年を迎え、退任が濃厚。垣内氏自身が「常に考えている」と言う後継者は一体誰か。最終盤に突入した後継レースに、ある異変が生じている。
